上越のサメ食文化のルーツを探る 市公文書センターが企画展開催中

新潟県上越地域では昔からサメを食べる習慣があり、特に山間部では正月料理の煮こごりや煮付け、フライなどとして食べられている。庶民の身近な魚として親しまれているが、いつ頃から食べられているのだろうか──。上越地域のサメ食文化をテーマに上越市所有の古文書などを展示した同市公文書センター出前展示会「資料から探る上越地域のサメ食の起源」が高田図書館(同市本城町)で開かれている。資料調査を担当した同センターの武石勉センター長に聞いた。

上越の正月料理「サメの煮こごり」
サメ6

江戸中期にはサメ漁の記録

越後のサメ漁や利用法について記した最古の資料は、江戸時代中期の1756年(宝暦6)に寺泊の漢方医、丸山元純が記した「越後名寄なよせ」で、越後の百科事典ともいわれている。この書物には、真鱶鮫まふかざめなまってモウカザメとなったとされる大型のサメのネズミザメを指す「ふか」について、頸城郡山之下(「西浜」と呼ばれた鳥ヶ首岬以西の旧西頸城郡の海岸)でよく獲れると記されている。この地域の地形は西頸城丘陵が海岸線に迫り、海岸は急激に深くなっていることから、大型のサメが生息する外洋まで短時間で達することができ、サメ漁の地理的条件に恵まれていたと見られている。

油を採取するための漁

「越後名寄」には、小型のサメのアブラツノザメ(ボウザメ)を指す「鮫魚さめ」の肉について「臭いはあるものの肉そのものは美味しい」とあり、山椒やみそなどを付けた焼き物、からしや酢みそで味付けしたなます、煮物、すしなどの調理法が紹介されている。一方で、サメの肉は貧しい人々の食べ物とされ、食用以外の利用法として、肝臓は油をとり行灯などの燃料に、皮は刀の鞘の表装や漢方薬の原料、ヤスリにすると記されている。

江戸時代の怪談話に登場する妖怪の「化け猫」が行灯の油を舐めるのは、高価な菜種油ではなく安価なサメなどの魚から取れた油を使っていたためと考えられている。

食用は水揚げ増と飢饉がきっかけ?

江戸幕府は俵物たわらものと呼ばれるフカヒレ、干しアワビ、乾燥ナマコの煎海鼠いりこの3品の清への輸出を奨励。江戸後期の1833年(天保4)には、増産のため漁に励むことや水揚げした3品はすべて幕府請負人に売り渡すことなどを厳命した。これによって大型のサメの水揚げが増え、ヒレや肝臓を取り除いた魚肉が市場に出回るようになった。

1889年(明治22)、旧高田藩士の庄田直道は「越後頸城郡誌稿 物産一巻」に『此鱣鮫ノ如キ、文化・文政ノ頃迄、当郡ニテ食スルモノ稀ナリ(フカザメは文化・文政の頃まで、この地域で食べる者はめったにいなかった)』と記している。このことから、文化・文政年間(1804~30)までは上越地域では大型のサメはほとんど食べられていなかったが、水揚げが増えた天保年間(1830〜44)から食べることが一般的になったと、武石センター長は解釈している。

「越後頸城郡誌稿 物産一巻」(上越市公文書センター所蔵)「西浜」とは鳥ヶ首岬以西の旧西頸城郡の海岸
サメ1

武石センター長は「サメ漁は従来は油をとるために行われていた。天保年間は大飢饉で多くの餓死者が出ている。資料はないが、食べ物に困りそれまであまり食べていなかったサメを食べるようになったとも考えられる」と話す。

サメは年取り魚

サメは水揚げされると体内の尿素が分解され、アンモニアが生成される。このため独特の臭みがある反面、アンモニアが雑菌の繁殖を防いで腐りにくくなり、特に冬場は生魚のままでもある程度の日持ちがする。冷蔵技術が未発達の時代、山間部に暮らす人々にとって、サメは塩漬けや干物ではない魚を味わえる貴重品だった。サメが年取り魚としてハレの日の正月料理に欠かせなくなったのは、このような理由も考えられるという。

上越市の魚市場で年末にはサメの競りが恒例となっている
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高田図書館で詳細な歴史資料を展示中

高田図書館1階ホールで開催中の出前展示会では、前述の「越後名寄」「越後頸城郡誌稿 物産一巻」のほか、サメ漁についての江戸幕府の触書、明治から大正にかけての正月のサメ食に関する新聞資料など、同市が所蔵する歴史資料6点を展示している。

高田図書館で上越地域のサメ食に関連する歴史資料を展示中
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展示期間は12月28日まで。問い合わせは同センター025-528-3110。

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