学童集団疎開から80年 高田に疎開した東京都葛飾区の元児童が感謝の上越市訪問

太平洋戦争末期の1944年6月、戦況の悪化によって大都市の児童を半強制的に地方の農山村に分散移動させる「学童疎開推進要綱」が閣議決定されてから、今年で80年。新潟県旧高田市(現上越市)などに集団疎開した東京都葛飾区の元疎開児童2人が2024年9月12日、上越市を訪れ、葛飾区長と同区教育委員会からの感謝状を中川幹太市長に手渡し、80年前の感謝を伝えた。

学童集団疎開の資料を中川市長(右)に説明する野口房夫さん(中央)と加藤一磨さん

約1年2か月高田などで集団生活

上越市を訪れたのは東京都葛飾区の野口房夫さん(90)と加藤一磨さん(90)。当時、地方に親類や知人のいない児童は学校単位の集団疎開となり、2人は金町国民学校5年生だった1944年8月31日に旧高田市に疎開した。

4〜6年生の疎開児童263人は教員や寮母らとともに、やすね(仲町2)、植木屋(本町5)、森屋(本町6)の料亭や旅館に分かれて寝泊まりし、現在の南本町小と大町小に通った。翌年の1945年3月には低学年児童141人も疎開したほか、終戦間近の同年7月には高田市街地に空襲の危険が迫り、周辺の高士、津有、新道の村々の八つの寺に再疎開した。約1年2か月を上越で過ごし、終戦から約2か月半たった1945年11月1日に帰京した。

森屋での疎開児童ら(金町桂会提供)

雪の中、まきを運ぶ疎開児童ら(同)

戦後は10年ごとに高田で交流

戦後、野口さんらは元疎開児童の会「金町桂会」を結成し、おおむね10年ごとに上越を訪れて戦時中の感謝を伝えるとともに、集団疎開を縁に高田の人たちと交流を続けてきた。この間、やすねに掲げられていた「東京都金町国民学校集団疎開学童宿舎やすね寮」と書かれた看板は、学童集団疎開の貴重な史料として東京都江戸東京博物館(東京都墨田区)に所蔵された。

80周年に訪問できたのは2人

集団疎開から80年が経過し、同級生の多くが体調不良や亡くなるなどし、9年ぶりの上越訪問に参加できたのは野口さんと加藤さんの2人のみ。「80周年はなんとしても訪問したかった」と語る野口さんは、「温かい愛情は子どもたちの胸に深く刻まれ今日でも地域間の交流として発展した」などとする葛飾区長からの感謝状を感極まりながら読み上げ、中川市長に手渡した。

また2人が再疎開した西方寺(同市上野田)も訪れ、親元を離れて暮らす児童を親身になって世話をした、先々代住職の豊田良禅さんと妻ヤイさんが眠る墓に線香を手向けた。西方寺では五男の弘(ひろむ)さん(故人)が同級生で、級長として地元の戸野目小の児童を束ねていたため、学校でのいじめやけんかなどはなかったという。

西方寺の歴代住職の墓に線香を手向ける野口さん(中央)と加藤さん(左)

「高田の方が古里のよう」「米持たせてもらった」

「他県に疎開した人たちは疎開のことを思い出したくもないという人もいるが、米どころ新潟はほかよりは少し食糧事情もよく、温かく迎え入れてもらった。東京は空襲で焼け野原になり戦前の面影がないので、高田の方が古里のような気がする」と野口さん。終戦の日に昭和天皇の玉音放送を聞くもラジオの音質が悪く聞き取れず、本堂の前に整列して担任教師から内容を尋ねられた際に、「耐えて頑張れ」と思っていたことを答えてしまい、「日本は負けたんだ」と叱られたことが忘れられないという。

かつて疎開児童が寝泊まりした西方寺本堂で豊田恵昭住職(右)に感謝状が贈られた

加藤さんは「空腹を紛らわすため、疎開児童が胃薬を買い占め、薬屋の胃薬がなくなったこともあった。東京に戻る際には、貴重だった米を1〜2升持たせてもらった。家に戻ったら米びつに米はなく、家族がとても喜んだ」と振り返っていた。