高田を3回訪れマラソン指導や講演 大河ドラマ「いだてん」の金栗四三

日本人初のオリンピック選手で、NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公、金栗四三(かなくり・しそう)が大正時代に3回にわたって新潟県高田市(現上越市)へ講演や指導、審判長として来ていたことがわかった。

オリンピックから帰国後、ユニホーム姿の金栗四三(写真提供・玉名市)
帰国後ユニホーム姿で出場記念写真

金栗四三は、1891年(明治24年)熊本県玉名郡春富村(現・和水町)で生まれた。1912年(明治45年)開催のストックホルムオリンピックに短距離の三島弥彦とともに出場し、日本人初のオリンピック選手となった。計3回のオリンピックに出場したほか、箱根駅伝の開催に尽力したり、高地トレーニングを導入するなど、日本マラソン界の発展に寄与した。ドラマでは金栗を中村勘九郎が演じている。

1912年のストックホルム大会開会式入場行進で「NIPPON」プラカードをもつ金栗四三(写真提供・玉名市)
「NIPPON」プラカードをもつ四三さん2

高田に来たのは計3回

高田市に来たのは1914年(大正3年)、1916年(大正5年)、1921年(大正10年)の3回。金栗がランナーとして最も脂がのった時期で、全国各地を回ってマラソン指導を行っていた。

1回目は1914年に高田中学で講演

1回目はオリンピック出場から2年後の、1914年(大正3年)10月20日。24歳の若さで、旧制高田中学(現高田高校)に招かれた。『高田高等学校百年誌』には「マラソン王、金栗四三を招聘し、午後零時半より一時間半にわたりマラソンおよびオリンピックについての講演を聞いた」とある。

金栗四三の講演についての新聞記事(高田新聞 1914年10月21日付)
金栗四三新聞記事拡大

翌日付の高田新聞は「韋駄天 金栗君語る」と題して、講演の内容を紹介した。オリンピックで金栗は日射病で倒れてしまったが、これについて「練習不足と、スウェーデンの気候の研究が足りなかった」としている。

|

当時、日本からスウェーデンへは船とシベリア鉄道で20日もかかり、「甲板で練習したほどでは体が続かなかった」。さらに「7月だったので気温は(華氏)80何度を示し、走る前から既に暑かった」という。摂氏30度近い暑さにやられてしまったのである。

金栗は身長5尺4寸(約163.6cm)、体重16貫(約60kg)と小柄で、外国人選手の体格と比べ物にならない。だが、長距離選手は過去の優勝者をみても「根気、気力、姿容の小さい元気な人が勝る」と優位を述べた。日本人は100m走で1秒もの差があるが、「マラソンでは十分望みがある」と話した。

2回目は大潟区まで走って指導

2回目の来高は1916年(大正5年)11月29日。『上越陸上競技史』は「高師生と共に潟町(現大潟区)まで走りつつ指導したり、高中では体育に関する講演をやって世界の競技界がいかに発達しているかを説いた」と書く。技術面でも「長距離走法として説いたのはつま先で大地を蹴るようにし、前脚も後脚もできるだけ伸ばし、呼吸は二度吸って二度吐くことなどを教え込んだ」と書いている。「スースー、ハーハー」の呼吸法はドラマでも描かれた通りである。

3回目は大会の審判長に

3回目の来高は1921年(大正10年)。『高田市史』第2巻によると、主催の高田日報社が上越一市三郡の青年連合大会に審判長として招いた。1920年の1回目の開催ではアントワープオリンピックに出場した野口源三郎を審判長に招き、翌年の2回目に金栗を招いた。1923年からは「上越オリンピック」と題し、学生、青年の区別なしに優勝を争わせた。ドラマ「いだてん」では、野口源三郎を永山絢斗が演じている。

◇NHK大河ドラマ「いだてん」公式サイト
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/