「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」──。今から113年前の1905年5月27日、日露戦争で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃つ際、連合艦隊司令長官東郷平八郎が全軍の士気を鼓舞した有名な訓示である。この時の様子を描いた絵画「日本海海戦 三笠艦橋の図」の複製画に、東郷自ら訓示を記した貴重な絵画が新潟県上越市の市立春日新田小にある。
「三笠艦橋の図」とは
日本海海戦で日本の連合艦隊は、参謀秋山真之が考案した敵前大回頭(東郷ターン)という大胆な作戦でロシア主力艦隊のバルチック艦隊を撃滅し、日露戦争の勝利を決定的にした。これを記念し海軍省は、戦争画を得意としていた画家の東城鉦太郎に同海戦の様子を描かせた。そのうちの一つが「三笠艦橋の図」で、バルチック艦隊と対峙した時の旗艦「三笠」の艦橋の様子を描いている。中央には東郷、参謀の秋山ほか、乗船していた海軍士官らが描かれ、東郷の訓示を意味する「Z旗」が翻る。
絵は当初、築地にあった海軍施設に飾られていたが関東大震災で焼失してしまい、その後1926年(大正15)に再び海軍省の依頼で東城が制作。現在は横須賀市にある記念艦三笠に展示されている。
複製画に東郷が揮毫
春日新田小にある絵は上越市柿崎区出身の玉井力三画伯(1908〜82)による複製画で、縦約112cm、横約145cmの80号。玉井画伯は1928年(昭和3)に東京の太平洋画会研究所(後の太平洋美術学校)に入校して絵画を学び、戦後は東京と柿崎を行き来しながら創作を続けた。小学館の学習雑誌に25年にわたって表紙の子供の人物画を描き続けたことでも知られる。
この玉井画伯が描いた複製画になぜ東郷が揮毫したのか。春日新田小元校長の故・渡辺文雄さんが、2006年、学校沿革史をはじめ三笠保存会や東郷会などに照会するなどしてまとめた絵についての調査結果を上越郷土研究会の機関誌「頸城文化」に寄稿している。
有田村出身の庭師が仲介
それによると、絵は玉井画伯が上京した翌年の1929年(昭和4)には完成しており、同年5月に当時の伊藤順二校長と校区の有田村の大地主で同校学務委員の藤井恕亮氏が東京の東郷邸に絵を持参し、「皇国の興廃―」の訓示を揮毫してもらった。当時は日本海海戦から24年が経過しており、東郷は退役し81歳。東郷の剣道の師が藤井氏と旧知の同村出身の元高田藩士で、この縁で東郷邸の庭師に同村出身者を紹介したところ腕の良さと人柄から東郷にかわいがられていた。この庭師を通じて揮毫を頼むと東郷はすぐに承知したという。
戦後ひそかに校内に隠される
“軍神” 東郷元帥が揮毫した絵は、戦後は不遇な扱いを受ける。当初絵は藤井氏が額縁を寄贈し校内に飾られていた。しかし終戦後、戦争関連のものが処分される中、当時の校長がひそかに校内の物置に隠し表向きは行方不明とした。
渡辺さんが1962年に直江津市教育委員会の指導主事として同校を訪問した際、当時の遠藤弥登治校長から物置にある絵を見せられ、「あなたが校長としてくるような時期になれば公開してもよいと思う。学校を改築する時は教育委員会と相談してほしい」と託されたという。
1985年に約20年ぶりに「発見」
渡辺さんは偶然にも24年後の1985年に校長として同校に赴任。同校は1966年に校舎を移転新築していたが、職員総出で校内を探したところ、階段下の物置から絵が見つかった。
発見後は校長室に飾られていたが、現在は多目的室に置かれ普段は白いカーテンがかけられている。
TJ調査隊のこれまでの調査結果
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