上越の三大地震の一つ「高田地震」は実在しなかった?

「越後高田地震、実際はなかった」「高田の地震が二つも消えた。(中略)いずれも幻だったようだ」──。今月、全国紙と地元紙にこうした記事が相次いで掲載された。高田地震といえば、新潟県上越地方の人にとっては、松平光長の時代に高田城が大きく崩壊し、家老らが圧死したことで知られる。この地震が幻だったとしたら、歴史は大きく変わってしまう。

新潟県上越地方に「三大地震」というのがある。「高田地震」(寛文5年・1666年)「宝暦の大地震」(宝暦元年・1751年)「善光寺地震」(弘化4年・1847年)で、約100年間隔で発生している。上越地方で「高田地震」といえば寛文5年(1666年)の地震ことで、高田市史によると、約4mの積雪の中、大地震が起き、高田城のほか、武士の家700戸と町家の大半が崩壊。夕食時だったたため火災が起き、雪壁で逃げ場を失うなど多くの死傷者が出たとされる。

「越後高田地震、実際はなかった」という記事

2016年12月4日付の産経新聞や東京新聞など一部の新聞やウェブサイトに「越後高田地震、実際はなかった」という見出しの記事が掲載された。

産経WEST
産経WEST

記事は、京都大防災研究所の加納靖之助教(地震学)が学会誌に発表した論文が元となっている。論文は、国立天文台が編纂する「理科年表」などに掲載されている弘化4年1月1日(1847年2月15日)の地震は、同年3月に起きた善光寺地震の日付を取り違えたものだという内容。これについて共同通信が配信した記事が各紙に掲載されたため、記事の内容は同じだが、見出しは各社でそれぞれ異なった。

「弘化4年に越後高田で発生した地震はなかった」とすべきところを、一部の新聞やサイトで「越後高田地震、実際はなかった」としていた。このため、寛文5年(1666年)の「高田地震」がなかったと勘違いした人も多いが、記事で取り上げられているのは弘化4年(1847年)の地震だった。

加納靖之助教は「見出しが短くなってくると誤解の可能性があると思う。やや削りすぎただけで,完全な間違いというわけではないとも思っている」と話す。その上で「記事を通じ、上越の人にも地震学や災害史について興味を持ってもらえたのではないか」とコメントしている。

【加納靖之助教の論文】弘化4年(1847)越後高田の地震における年月日の取り違え(http://hdl.handle.net/2433/217240

「高田の地震(中略)いずれも幻だった」という記事

12月20日の新潟日報1面に次のようなコラムが掲載された。

高田(上越市)の地震が二つも「消えた」。一つは慶長年間の1614年11月の大地震。二つ目は、1847年2月のもので、理科年表にも載っていた。いずれも幻だったようだ▼慶長の地震については、東大地震研究所の教授、吉田真吾さんが昨年、幻の経緯を本紙に寄せている。「越後高田領大震、人死多」という史料があるにはある。ところが会津の史料で、高田にそうした記録はない。調べると、書き写しや伝聞の不確かさが浮かび上がってきた(以下略)

このコラムの2つ目の地震は、先に紹介した京都大防災研究所の加納靖之助教の論文のことだが、1つ目は「慶長年間の1614年11月の大地震」。これも「幻だった」としている。記事には東大地震研究所の教授、吉田真吾さんが同紙に経緯を寄せたとある。理科年表にも「従来、越後高田の地震とされていたもの。大地震の割には資料が少なく、震源については検討すべきことが多い。(中略)京都付近の震源とする説がある」と記載されている。

この記事によると、高田で起きたとされてきた慶長年間の1614年11月の大地震も「幻」だったということだが、これも寛文5年(1666年)の「高田地震」とは違う地震の話だった。

上越の三大地震

上越の三大地震の一つ、 寛文5年の「高田地震」については、いずれの記事でも触れられておらず、従来通り通り実在は疑われていない。

最後にもう一度、いわゆる上越の三大地震と、今回全国紙と地元紙の記事で幻とされた2つの地震の関係を時系列にまとめると次のようになる。下線が「幻」の地震。

  • 1614年 「慶長年間の1614年11月の大地震」
  • 1666年 高田地震(寛文5年)
  • 1751年 宝暦の大地震(宝暦元年)
  • 1847年 善光寺地震(弘化4年)(「弘化4年1月1日(1847年2月15日)の地震」は善光寺地震と取り違えた)