萩尾みどりさん、上越での青春を語る

上越市男女共同参画推進センター主催の第4回講座が1月23日、春日山町3の春日謙信交流館で開かれた。上越育ちの女優、萩尾みどりさんが「男の座標軸をひろげるには」というテーマで講演し、この中で小学校高学年から高校まで過ごした上越での青春の思い出がたっぷり披露された。これまであまり明らかにされなかった萩尾さんの上越時代の話を紹介する。

講演する萩尾みどりさん
20100121萩尾みどりS

萩尾さんは1954年1月14日、福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。父が三菱化成に勤務しており、萩尾さんが10歳のとき転勤で上越市福田の社宅に引っ越してきた。まずは、来てから2か月後の1964年(昭和39年)6月16日の新潟地震の話から。

新潟地震に遭う

生まれて初めて、腰がぬけるほどの思いを味わった。突然地鳴りが聞こえてきて、下を見ていたらドーンと一気にきた。食器棚から食器がボワーンと出てきた。

10歳だったけど、今日は自分が死ぬ日だったのかと思った。子供心に、世の中は一寸先は闇ということが分かった。

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雪国を経験

当時、三菱化成の社宅から学校に通っていて、雪が一晩に50~60センチも当たり前だった。

小学生のとき、同級生が遅刻してきて「今日は雪下ろしを手伝ったので」と言ったら、先生が「じゃあ、いいんだ」と言った。社宅は鉄筋コンクリートだったので、雪下ろしはなくてうらやましく思った。

大雪で2階から出入りしたこと、消雪パイプの威力のすごさとか、いろいろ経験した。

高田公園のハスの見事さ

附属中、高田高校の6年間は毎日7時20分のバスに乗って学校まで通った。だから6時に起きる毎日だった。

高田公園のお堀のハスの花。夏休みに咲くのでなかなか見られないが、あるときに見てあまりの美しさにびっくりした。いまだにあの情景は忘れられない。全国に誇れるものだと思う。

淡い初恋

キンモクセイの時期、とてもいいにおいだったので、いい感じだと思っていた男の子にあげようと、においをかごうとしたら、花が全部鼻の中に入ってしまった思い出がある。

豊かな上越の自然

家の近くにフクロウやキジがいる森があった。学校が遠くて友達が少なかったこともあり、そのころから生き物や植物にすごく興味をひかれるようになった。いま日本でカエルが激減しているが、当時は田んぼから信じられない数のカエルが合唱していた。

近くに小川があって、そこにものすごい数のホタルがいた。大人になってから何か所かホタルの名所に行ったことがあるが、あそこほどすごい所はなかった。8年間上越に住んでいて私の大きな財産になった。

附属中への進学

附属中に行ったのは、負けん気が強かったから。

社宅にいたので、近所同士が井戸端会議をする。その中で、女の子が大学の医学部や工学部へ行くという話が一度も出てこない。

それで母にきいたら「女の子に大学は必要ないし、行くのなら文学部では」と言われた。

ただ反発するために小5で(進路を)決めた。

理系に行くには普通の中学じゃだめだと思い、先生に「附属中を受験したい」と言った。それで先生は6年生の1年間、毎日1時間ずつ補習してくれた。

そのころは自分が将来、何をやるか決めていなかったが、母から「人の役に立つ仕事をやって」と言われていたので、「医者かな」と思っていた。

中学になって医者の責任の重さを知り、人間の解剖をすることを聞いて「だめかな」と思った。

そのころ生物学の先生の授業が面白く、特に生物界の七不思議の話が面白かった。それで理学部で生物学に進もうと決めた。

世間的には女は理系に弱いと言われているが、それは誤り。一概に男女で理系、文系と分けるべきではない。

大学受験

私は1時間もかかる遠い道のりを通ったが、高校の時に急性胃炎で1日休んだだけ。これで大学を受ける資格は十分だと思った。

サラリーマンの父からは「国立大に行け」と言われていたので、金沢大を受けた。滑り止めなど考えもしなかったら落ち、人生で最大の挫折となった。

父に予備校に通わせてほしいと頼んだ。1年間だけで、だめなら就職しろと言われた。

東京の予備校での1年間がいい経験になった。そのときの集中力が役に立った。

NHKの7時のニュース以外のテレビは見ないで勉強に打ち込んだ。

旺文社の模擬試験で千葉大の合格率が97%と出た。東大受験も考えたが、確実な千葉大をとった。東大に入っていたら、女優になることもなかった。その代わりに、もしかしたらノーベル賞をもらっていたかもしれない。

美人コンテストへの出場

友人から「来週、目黒の杉野講堂で美人コンテストというのがあってさ」と誘われた。化粧もしたことがなかったし、「女子大生のコンテストなんてばかみたい」と思った。だが、「国立大からは一人もいないので」と拝み倒された。

私立のプリプリの女の子がたくさんいて、私はジーパン姿でスッピン。審査員の中に山本コータローさんがいた。みんなは趣味を聞かれて「手芸」とか答えていたが、私は「勉強」と答えた。

「空いている時間は?」と聞かれて、「本を読んでます」と答えたら、「理系でしょ」と言われた。それで「女の子が理学部に行ってもいいと思いますけど」と答えた。感じ悪さではピカイチだったが、目立ったらしく準ミスに選ばれた。

芸能界入りへ急展開

(コンテストが終わって)「来週の日曜、フジテレビの生放送に出るので、必ず来て」と言われた。

司会は愛川欽也さんだった。その生放送をポーラテレビ小説のチーフディレクターが見ていた。

私の顔を見て、「次の主役に」と思ったという。それで電話をかけてきた。

もちろん断った。硬派なので。そしたら「あなたが芝居をできないことは分かっている。ほしいのはあなたのキャラクターだ」と言われた。

芸能界を半年ぐらい経験してもいいかな、と思った。父も最初は反対していたが、半年間大学を休んでやることにした。

*萩尾さんは在学中の74年に、TBSのポーラテレビ小説「わたしは燁(あき)」でデビューした。

芸能界で学んだこと

(芸能界で)学歴は一切関係ないということを叩き込まれた。例えば、遅刻は絶対にしない。風邪をひいて休めばスタッフ全員が迷惑を被る。人間が仕事をするときは、プロに徹しなければならない。

ドラマの現場は朝7時か8時から始まり、終わるのは朝の3時、4時で、寝る時間はほとんどない。健康管理もきちんとやらないとできない。

舞台も経験

舞台もやらせてもらった。

23歳のときに初舞台。緒形拳さん(2008年10月5日死去)が相手役だった。朴訥だが、すごく優しい人。演出は小沢栄太郎さんで、すごく厳しいと言われていた。

稽古1週間で呼ばれ、「芝居をうまくやろうと一切考えてはいけない。劇場の一番奥まで声を出すのが一番のテーマ」と言われた。

舞台はお客さんの気持ちが手にとるように分かる。空気が毎日違う。

緒形拳さんが亡くなる1年前。5年ぶりぐらいでNHKの廊下で会った。「おーっ」と言って、私をガッと抱きしめた。目を白黒させていたら、「お前、元気にしていたか」と言う。返事をしたら「そうか。頑張るんだよ」と言った。

緒方さん、どうしたんだろうと思った。あれが緒方さん流のお別れだったんだろうな。

*このほか、海外での撮影のよもやま話や、撮影現場に女性が進出している話など、1時間15分にわたるもりだくさんの内容であった。講演の冒頭では、会場にいた上越市中郷区在住の姉、パステル画家の萩尾紅子さんを紹介した。(川村)