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直江津のライオン像は、香港の像に似ていた!?

10年前

ヤフー知恵袋の質問↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1134969136

2010年1月6日の「ヤフー知恵袋」に、isbn9748さんから、経営破綻で大正時代に廃業した旧直江津銀行のライオン像の歴史的沿革について質問が掲載された。

それに対し、drkozlrさんから懇切丁寧なアンサーがあった。その中で、現在上越市中央3にあるライオン石像はこれまで三越のライオン像をモチーフにしたと言われていたが、「東洋一の銀行建築として知られる旧香港上海銀行ライオン像に似ている」という新説が明らかにされた。

同ライオン像は、香港ドルのデザインになっており、待ち合わせ場所としてもよく利用される。このうち1頭のライオン像には、日本軍による香港攻略戦の流れ弾で穴が開いている。

旧直江津銀行のライオン像(上越市中央3)
旧直江津銀行ライオン像S

旧直江津銀行の土地と建物を上越市に寄贈した高達倉庫によると、ヤフー知恵袋の回答は上越市の周辺地域に住んでいるdrkozlrさんへ、同社が資料を提供したものだという。

ライオン像の歴史的沿革

質問は「上越市に旧直江津銀行建物が寄贈され文化財として保存されることになったそうですが、この建物には三越ライオン像と似た石像があり、ライオン像の建物とも呼ばれていますが、その歴史的沿革について教えてください」というもの。

その回答は次のように書かれている。以下、引用する。

明治 28年県内初の貯蓄銀行として設立された直江津積塵銀行は、明治33年普通銀行に組織変更するに当たり直江津銀行と改称した。直江津銀行は、田中謙五郎(旧大潟町)や吉澤襄良(旧高田市)が頭取を務め、稲田・高田支店を設けるなど、江戸期以来の村役人が米穀を灘廻し・川下しにより直江津港まで運んでいた伝統を感じさせる。

本店は直江津の目抜通りであった新町通りの角地にある片田家屋敷地に設けられた。片田初造は、横浜正金銀行設立時の発起人22人に名を連ねた実兄の笠原恵と共に、銀行設立を主導したが、二人は明治後半期に、頚城平野の油田開発に傾注した。結局のところ明治40年代の全国的な不況の中で、直江津銀行は経営不振となり、大正2年取付け騒ぎ、4年会社解散となった。

明治期直江津港は、明治19年に信越線起点駅となり、北海道海産物が大量に荷揚げされ活況に沸いたが、30年代になると新潟方面まで鉄道が延伸して優位性が失われた上に、31年市街地がほぼ全焼する大火が発生し、その後も41年まで大火が連続し、火災からの復興をめざしていた。

直江津銀行本店建物も、39年7月の火災で焼失と町史に記録されており、また、40年9月発行の小冊子上越名勝案内の中で現存する銀行建物と同様の写真が掲載されており、現存建物はこの間に建築されたと考えられる。この写真によれば、建物は長方形の一隅を切り落とした五角形の形状であり、角地隅にあたる一辺に正面玄関を設けるという当時の銀行建築に良く見受けられる形状であるが、この正面玄関が鬼門と呼ばれる北東方向に堂々と向いていたのは、当時としては異例であったと思われる。

高橋達太(運送業・廻船業)は、銀行経営破綻後にこの土地建物を取得し、大正7年米騒動の社会不安の年に、銀行建物を海岸通りの現在地まで約400m曳き屋したとされる。その後この建物は、高橋回漕店事務所として利用されたが、昭和17年戦時統制により高橋の事業は実質的に解体され、戦後は高橋の事業の残存部分を行うための軽微な利活用に留まった。このため建物内部には銀行当時の金庫・看板・机が現存している他、郷津湾(片田油田)の大絵が掛かったままであるなど、建物内部が銀行当時の状態で保存されているのは稀少である。

移築後の敷地にある煉瓦造防火壁は、フランス積みとイギリス積みが接続している等から建物の移築時以降に随時増築したと考えられる。同様にライオン石像ついても、建物の移築時以降昭和9年高橋死去頃までに設置されたと考えられるが、詳細は不明である。

大正初期の高橋は、同郷板倉村2才年下の増田義一(実業之日本社社長)が、大隈重信に重用され、立憲改進党・財閥と面識があることをつてにして、鉄道省・三井と頻繁に連絡をとっていた。こうして、大正2年北陸線全通により直江津駅が終点駅となるのに伴い、直江津港(保倉川沿岸)は、日本海側最大規模の石炭貯炭場として利用されることになり、港は石炭荷揚げにより再び活況となった。

このように、大正3年東洋一の百貨店として三越呉服店が竣工した当時、高橋は日本橋樋口屋旅館を定宿として三越隣にある三井本館を頻繁に訪問していたのであり、旧直江津銀行の正面玄関を壁に改修し、その壁前に鬼門封じのライオン石像を設置したのは、三越ライオン像をモチーフにしたものであると言える。

しかし、高橋は、背広写真が一枚も無く、現存する高橋別邸等の趣味から見ても、紋付袴を好んだ純和風の人物だったのであり、煉瓦壁やライオン像といった洋風意匠へのこだわりはどこらか来たのか不思議である。また、このライオン石像は、三越ライオン像より、東洋一の銀行建築として知られる旧香港上海銀行ライオン像に似ているという指摘もあり、この建物の設計者が、銀行建築に熟知した人物であり、移築・煉瓦壁・ライオン像のすべてに関与したとも考えられ、今後の詳細調査が期待される。

ライオン像2L

(川村)