上杉謙信は寅年生まれ 没したのも寅年

越後国などを支配した戦国武将、上杉謙信は1530年(享禄3年)1月21日、越後守護代・長尾為景の末子として誕生した。寅年の寅の刻(午前4時前後)に生まれたため、幼名は「虎千代」と名付けられた。後に元服して「景虎」と名乗った。長尾家代々の「景」という字を捨てて「虎」の字に執着したのはなぜだろうか。

上杉謙信像(上越市の春日山城址)
971223上杉謙信像

後年、関東管領上杉憲政を助けたことから、1561年(永禄4年)にその職と上杉の名跡を受け継ぎ、憲政の字を取って「政虎」と改めた。さらに「輝虎」と改めるなど、その名にはすべて「虎」の字が付く。成年後は「越後の虎」と称されたことでも分かる。「謙信」というのは41歳で剃髪した以降に称した法号である。

謙信の母青岩院は栖吉城(長岡市)の城主長尾氏の娘で、「虎御前」として知られる。熱心な観音菩薩の信者であり、謙信が仏門に入ったのは母の影響と言われる。虎千代を生んだ母だから「虎御前」と呼ばれたのか。生年は不明だが、寅年生まれであることも考えられる。ならば、謙信が生まれる24年前の1506年(永正3年)の可能性が高い。

上杉謙信と「虎」の繋がりはこれだけではない。謙信が49歳の生涯を閉じたのは、1578年(天正6年)の寅年だった。

謙信の死後、甥の上杉景勝と養子である上杉景虎が家督相続を巡って争った。御館の乱である。普通に考えたら、実姉の息子である景勝が後継者としてふさわしいはず。実際は上杉家が真っ二つに割れて、血のつながりがない北条氏康の息子景虎に半分がついてしまう。

これについて東京大学史料編纂所の本郷和人教授は『新説 戦国武将の素顔』で、「謙信は晩年、景勝でなく景虎を、自分の後継者だと家臣にみせていたのではないか」と推察している。

景虎は1554年(天文23年)の寅年生まれ。謙信は自分が名乗っていた「景虎」の名を与えて養子にしたことからも、因縁を感じていたのではないか。

景虎は春日山城を脱出し、御館(五智1)に立てこもって対抗した。御館は景勝軍の猛攻撃を受けて落城、景虎は鮫ヶ尾城(妙高市)で自害した。