スキーとカンジキ、わらぐつをはいて雪の上でレースをしたら、勝つのはどれか。スキーが圧勝だと思うだろう。レルヒ少佐によって高田に日本で初めてスキーが伝わったばかりの明治末期は、いい勝負だったようだ。
1912年の初レースはスキーが勝ち
『高田市史 第2巻』によると、最初のレースは1912年(明治45年)2月12日に金谷山で行われた越信スキークラブの発会式で実施された。午前中は遠距離競争、演習、雪上自動車の実験などがあり、午後からスキー、わらぐつ、カンジキの三者による競争が行われた。西山をスタートして向山を越え、中山を経てゴールするコースである。

当時の高田新聞の記事が引用されている。「乗用者の一人(スキー)は疾駆また疾駆、決勝に近き登り斜面を利用して、百メートルを先立ちたるカンジキの優勝者に追いすがり、わずか秒時の差にて最後の勝利を博せしかば、観覧席なる長岡師団長はもちろん、審判席なる山口少佐は、さすがに誇り顔なるも無理ならずと思われき」とある。
上りはカンジキが最も速いが、下りはスキーにかなわない。髙田市史は「スキーがからくもカンジキに勝ったことから見ても、当時のスキー技術の幼稚さが察せられる」とまとめている。
スキーがカンジキに負けることも
スキー史研究家、中浦皓至氏の『日本スキー・ほんとうの源流』によると、報知新聞の記事を引用し、「最後に当日の競技中の呼物である雪挺(スキー)と藁靴(わらぐつ)とカンジキとの競争あり、カンジキの方が雪挺よりも約五間(約9m)先の方が先に決勝点に着して大喝采を博したり」と書いている。中浦氏は「このころは、スキー技術のレベルも低かったため、スキーがカンジキに負けるということもありました」と書いている。藁靴については書かれていないので、問題外だったのではないか。最終的にスキーとカンジキの競争になったようだ。
下りに強かったスキー
中浦皓至著『我が国スキーの父 人間レルヒ少佐』(レルヒの会編)に、上越市黒田の近藤文太さんが、後谷から国見平の間で行われたスキーとカンジキの競争について見聞録を書いている。「たちまちのうちにカンジキの方が先へ行って見えなくなる。カンジキの人が下って来て七合目辺でスキーに出遭う。カンジキがゴール目前の処まで来たとき、滑降して来たスキーに抜かれてしまった」と書いている。このレースにわらぐつは出てこない。